幸せを運ぶ十七音 |
「風叙音」 誌上で 好評連載中! | ■立山の北壁削る時雨かな 棟方志功 ■わが魂は海獣ならんと欲す 石原慎太郎 ■不二筑波一目に見えて冬田面 三遊亭圓朝 ■ぼたん雪が流れに消える 鳥の羽おと 河村目呂二 ■夏の野に幻の破片きらめけり 原 民喜 ■ギヤマンの船だす秋の港かな(前・中・後・完結) 竹久夢二 ■寒鯉やたらひの中に昼の月(前・中・後) 小津安二郎 ■御山のひとりに深き花の闇(前・後) 瀬戸内寂聴 ■間断の音なき空に星花火(前・後) 夏目雅子 ■蓬餅あなたとあった飛騨の夜 吉永小百合 ■秋の陽をまぶたに乗せて駱駝ゆく 吉行和子 ■にごり江に夕日のあはし鴨下ル 市田ひろみ ■天涯に一粒落ちて冬木立 中島誠之助 ■菜の花の群れから離れ独り咲く 増田明美 ■稲妻の去り行く空や秋の風 稲妻雷五郎 ■顔見世や奈落に消ゆる御曹司 大澤孝征 ■亡き妻が眠りし庭に彼岸花 日野原重明 ■秋灯机の上の幾山河 吉屋信子 ■陽炎に狐ふりむき消えにけり 吉村 昭 ■目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹(前・後) 寺山修司 ■水難の茄子畠や秋の風 若尾瀾水 ■花はみな四方に贈りて菊日和 宮沢賢治 ■村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 渥美 清 ■春雨やジヨツトの壁画色褪せたり 高村光太郎 ■行き暮れてここが思案の善哉かな 織田作之助 ■さみだれの墨染衣濡らしをり 松本幸四郎 ■うちの子でない子がいてる昼寝覚め 桂 米朝 ■何もかも言ひ尽してや暮の酒 三島由紀夫 ■死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き 尾崎紅葉 ■紫陽花や身を持ちくづす庵の主 永井荷風 | |
■「太宰治と俳句」というと、エーッ? と思われるかもしれません。確かに、「太宰治全集(全13巻)」の第11巻「俳句」の項には、「旅人」と題した連句の発句を含めて太宰の句は16句しか掲出されていませんし、太宰の作と認められるのは33句ほどでしょうか。しかし、太宰の文体と俳句は密接な関係にあるのです。
■太宰は、やがて学業を放棄して、義太夫を習い、花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓紅子・小山(おやま)初代と知り合います。このころの太宰の俳句に、 大川端道化に窶〈やつ〉れ幇間の 幇間の道化窶れやみづつぱな などがあります。これらは“衆二”の名で蔵書の表紙裏などに記されていたもので、中学から『蜃気楼』『細胞文芸』では、主に“辻島衆二”の名義を使っていました。その後は、『弘高新聞』や『猟騎兵』『座標』等に、“大藤熊太”や“小菅銀吉”の名義で左翼傾向の作品を書いています。
■ちなみに、“太宰治”の筆名の由来には、「高校の同級生太宰友次郎説」「ダダイズム説」「ダァ・ザイン(da sein =そこに存在すること)説」「堕罪説」など諸説がありますが、「友人と考えた」としか本人は語っていません。
■明治42年6月19日、津軽の大地主で、のちに貴族院議員となる父津島源右衛門、母タ子(たね)の第10子・六男として、太宰は青森県北津軽郡金木村に生まれました。長兄総一郎・次兄勤三郎の二人が夭折し、弟も早く亡くなり、芥川の境遇に似て、叔母のキヱ(きゑ)を実母のごとくにして育てられ、早熟で異常に感受性の強い子供でした。16歳のころから、同人雑誌に小説やエッセイを書きはじめています。太宰が14歳の時、父の源右衛門が病没し、三男の文治が家督を継ぎます。
■昭和4年12月、カルモチンを服用して、太宰は最初の自殺未遂を起こします。自分の出身階級に悩んでのことといわれていますが、太宰自身は、“微笑するだけ”で答えていません。翌年の4月、21歳で東京大学フランス文学科に入学、かねてから尊敬していた「山椒魚」の作者井伏鱒二に弟子入りします。青森から初代を呼び寄せ、同棲。11月24日に兄文治が小山家と結納を交わしますが、翌日、銀座のカフェの女給田部あつみ(シメ子・19歳)と出会い、3日間を共に過ごした後、神奈川県の小動崎(こゆるがさき)の岩の上で心中を図ります。シメ子は死亡、太宰は一命を取り留め、翌12月、青森で初代と仮祝言をあげます。
■しだいに左翼運動に傾倒し、昭和10年、太宰は授業料未納により大学を除籍、都新聞社の入社試験にも失敗し、3月16日、鎌倉八幡宮の山中で縊死を企てますが未遂におわります。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発し、入院先で鎮痛のために使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけにして、薬物の中毒地獄に陥ります。
■太宰の自伝的な作品「東京八景」に昭和7年「朱鱗堂と号して俳句に凝つたりしてゐた」とあり、また、同年8月12日の沼津から青森の親戚・小館善四郎に宛てた書簡に、「一昨晩近所の俳句好きの青年たちと俳句に就いて語り合ひました」とあります。相当に俳句に入れ込んでいたことがわかります。このころの太宰の句に、 旅人よゆくて野ざらし知らやいさ 今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ 亀の子われに問へ春近きや 老ひそめし身の紅かねや今朝の寒 などがあり、孤独感が漂う、破調の句が目立ちます。
■昭和9年の「葉」や10年の「ダス・ゲマイネ」、11年の「虚構の春」、12年の「二十世紀旗手」などの小説中には、作品の要素として太宰自身の俳句が挿入され、また芭蕉や其角、子規らの句が散りばめられています。それは、彼の文体にも影響を及ぼします。そもそも太宰は、芥川の影響を強く受け、理知的・技巧的な文学、ダンディズムの文学、純粋芸術至上主義の文学を目ざし、新しい文学を求めたのです。新しい文体や複雑な形式を模索し、青春の感傷と情熱を注ぎ、読点を多用し、助詞を省略した文体を生みだしていきます。このころの太宰の句に、 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像。 歯こぼれし口の寂〈さぶ〉さや三日月 ソロモンの夢が破れて一匹の蟻。 など、左翼運動にのめり込みながらも満たされない悲哀や芥川賞を受賞できない焦燥感が漂っています。
■しかし、太宰のその難解な方法は理解されず、昭和11年10月、“結核療養”とだまされて精神病棟に入院させられるなど半狂人扱いされ、また入院中に初代と上京していた親戚の画学生小館善四郎の過ちを知ってショックを受け、昭和12年3月、初代とカルモチン自殺未遂をおこし、結局初代と離別します。そのようなどん底の状況の下で、昭和13年9月13日、井伏鱒二は、1年近く下宿生活をしながら筆を断っていた太宰を、山梨県御坂峠の天下茶屋に呼び寄せ、精神の安定と生活の再生を図ろうとしたのです。
■掲句は、昭和14年12月15日に、友人の高田英之助に結婚を祝して送った書簡にある句で、前書きに「奥さまには くれぐれもよろしく。」とあります。友人の高田を揚雲雀に見立て、〈結婚したばかりの奥さんは、春の幸せなどんな装いをしているのでしょうか〉と呼びかけているようです。高田夫妻は、婚約からすんなりと結婚できたわけではなかったのです。新婦の思いがいくばくであったかと思いやる太宰の優しさがあらわれた、太宰にはめずらしく明るい佳句です。このとき、井伏の媒酌で斎藤須美子と結婚した高田の似顔絵が残されています。井伏が色紙に描いたもので、その絵の横には、「ほんものはもつとわかくていい男」の太宰の賛も添えられています。
■太宰は、この年の1月8日に井伏鱒二夫妻の媒酌で結婚をし、9月に甲府から三鷹に転居したところでした。妻となった石原美知子を紹介したのが、高田英之助です。彼は、井伏の郷里・広島県福山の後輩で、慶應大学の国文科を出て、東京日日新聞(現・毎日新聞)甲府支局に勤務していました。若きころ、太宰、伊馬春部とともに作家を目指す“井伏門下の三羽ガラス”といわれた人です。井伏から「太宰の妻に誰かよい人はいないだろうか」と高田に話があり、フィアンセの須美子の女学校時代の後輩・美知子はどうか、ということになったのです。実は、その直前にも、太宰には縁談話がありましたが、太宰の風評がよろしくなく、先方から断られていたのでした。
■昭和13年のこの太宰と美知子の縁談は、小説「富嶽百景」にあるとおりです。「このうへは、縁談ことわられても仕方がない、と覚悟を決め、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう」と破れかぶれの太宰に対し、太宰の過去に目を瞑り、「ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する誠意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」と美知子の母親。「この母に、孝行しようと思つた」太宰は、井伏に“生活の立て直し”を誓約します。
■この時期は、太宰にとって最も安定的な至福の時期でした。小説の構成や文体に大きな変化がみられ、平明で自然な落ち着いた文体となりました。“惑乱から安定へ”“絶望から希望へ”と変化したのです。「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴へ」「走れメロス」などの傑作が陸続と発表されます。やがて、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」へと日本文学史を代表する作品が生み出され、文壇の寵児への道を歩みはじめることになるのです。 (七波)
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■これは夏目漱石の一周忌の折に詠まれた芥川龍之介の俳句です。第四次『新思潮』の創刊号に発表した小説「鼻」が夏目漱石に認められ、芥川が文壇にデビューしたのは、大正5年(1916)2月、東京帝国大学生の時でした。その年の7月に大学を卒業、12月に横須賀の海軍機関学校の嘱託教官となり、鎌倉の野間西洋洗濯店の離れに下宿します。漱石が亡くなったのは同じ年の12月9日のことでした。
■夏目漱石の有名な句に、「有る程の菊抛〈な〉げ入れよ棺の中」があります。これは友人の夫人で作家・歌人の大塚楠緒子(くすおこ・なをこ、本名:久寿雄)が明治43年(1910)11月9日に35歳で亡くなった時に、病床にあった漱石が「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」の前書きで11月15日の日記に記(しる)した句です。対詠の挨拶句で、漱石が生涯忘れることができなかった恋人の死にあたり、病床から、せめてありったけの菊の花を棺に入れてやってほしいと、何のわだかまりもなく、まっすぐに詠っています。
■芥川は、大正6年(1917)11月24日の松岡 譲宛葉書に「先生没後1年とは早すぎる位早い」として、かなりこの句を意識して、掲句を詠んでいます。ここには、父なるものの漱石への追念とともに、15年前の11月28日に発狂して亡くなった実母への永遠の想いが込められていないでしょうか。また、同25日の池崎忠孝宛葉書に「序〈ついで〉に名句を披露する」として、「たそがるる菊の白さや遠き人」「白菊や匀〈におい〉にもある影日なた」の2句を記しています。
■芥川にとっての大正6年は、第一短編小説集『羅生門』(5月)、第二短編小説集『煙草と悪魔』(11月)を刊行し、また翌年2月に塚本文子との結婚も決まり、一見意気軒昂の時のように思われます。しかし、その一方で漱石という大きな後ろ盾を失って非常に落胆し、また久米正雄と夏目筆子のスキャンダルが持ち上がっている時でもあり、さらには、筆子の第一婿候補に芥川の名が挙がっていたこともあり、前掲の「白菊」の句は、そんな状況を詠んだ句なのです。
■芥川は明治25年(1892)3月1日に父新原(にいはら)敬三、母フクの長男として、東京都京橋区入舟町(現・中央区明石町)に生まれました。しかし、母のフクが突然発狂、芥川は生後間もなく本所区小泉町(現・墨田区両国)の母の実家で未婚の伯母フキに育てられます。養子となって芥川姓になったのは、母フクが死去した翌々年の明治37年(1904)満12歳のときでした。
■芥川の俳句を、飯田蛇笏は、小説よりも高く評価していました。また、岡本かの子も、芥川の俳句を短歌よりも高く評価し、「芭蕉の不易流行の不易を内容的心的境涯とし、流行を表現形式の手段とすれば、流行は既に手に入り、ひたすら不易に於ける幽処の到達に腐心している」と評しています。このように、文人の中でも芥川の俳句は、一、二と称されるほどの名手であり、実力者だったのです。しかし、昭和2年(1927)に香典返しとして編まれた『澄江堂〈ちょうこうどう〉句集』には、生前の自選50句を含む77句しか収録されていません。芥川が生涯に詠んだ俳句は、560句とも1,200句ともいわれています。
■芥川は子供時代から早熟で、すでに俳句や短歌に親しみ、江東尋常高等小学校4年生の時の句に、 落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな があります。この句について、大正14年(1925)6月の『俳壇文芸』に発表された「わが俳諧修業」に、「鏡花の小説など読みゐたれば、その羅曼主義を学びたるなるべし」と記しています。その後、「大学を卒業するまで句作を行わず」(この間、書簡の中に句が散見されます)、海軍機関学校の教官となり、高浜虚子と同じ鎌倉に住んだ折に「ふと句作をして見る気になり」、虚子に10句ばかりの添削をお願いしたところ『ホトトギス』に2句掲載されたのだといいます。それを機に、虚子に就いて本格的に俳句を学んでいます。また、芭蕉に惹かれ「芭蕉雑記」(大正12年)、「続芭蕉雑記」(昭和2年)や小説「枯野抄」(大正7年)を書いています。俳号は我鬼(餓鬼を捻ったものとも、中国語で自我のことともいわれています)。 ■芥川の人口に膾炙する句に、 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな 木がらしや目刺にのこる海のいろ 青蛙おのれもペンキぬりたてか 水洟や鼻の先だけ暮れ残る などがあります。
■「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」については、“我鬼”が芥川の俳号とは知らなかった飯田蛇笏が「無名の俳人によって力作された逸品」と称賛しています。大正7年(1918)の7月『ホトトギス』雑詠欄に「鐡條〈ぜんまい〉に似て蝶の舌暑さかな」とあり、また「我鬼句抄補遺」には大正7年の作として「ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな」の形ででています。
■「木がらしや目刺にのこる海のいろ」について、大正11年(1922)12月17日の眞野友二郎宛書簡に「長崎より目刺をおくり来れる人に」と前書きして「凩や目刺にのこる海のいろ」と記していますが、「我鬼句抄」にはすでに「凩や目刺に残る海の色」の形で大正6年(1917)の作とされています。この木枯らしの海の色は、青ではなく代赭色でしょう。それが芥川の原体験の海の色です。
■「青蛙おのれもペンキぬりたてか」については、友人から、フランスの作家ジュール・ルナールの『博物誌』に、「とかげ ペンキ塗りたてご用心」があると指摘されると、だから“おのれも”としてあると答えたといいます。
■そればかりではありません。芥川は、「飯田蛇笏」の中で、「その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に『死病得て爪美しき火桶かな』と云ふ蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具へてゐた。僕は『ホトトギス』の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽竊〈ひょうせつ〉した。『癆咳〈らうがい〉の頰美しや冬帽子』『惣嫁指〈そうかし〉の白きも葱に似たりけり』――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した」と記しています。
■大正8年(1919)2月8日の薄田泣菫宛書簡に「青蛙おのれもペンキぬり立てか」、小島政二郎宛書簡に「青蛙おのれもペンキ塗り立てか」とあり、また同年8月15日の秦豊吉宛書簡に「青蛙おのれもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の為に註す事然り)」と記していますが、「我鬼窟句抄」や「我鬼句抄」には大正7年(1918)の作とされています(大正8年3月の『ホトトギス』雑詠欄に掲載)。
■芥川の自殺の原因が奈辺にあったのかについては諸説挙げられています。母の血を引く発狂への恐れ、芥川と新原の両家を一身に背負わなければならない重圧、複数の女性問題、文壇の寵児を育てた伯母と養父母との力関係、そして創作の根本的な問題があるようです。
■芥川の小説の特徴は、短編を中心とした、少年の読者にも受け入れられる早熟の少年小説である一方で、研ぎ澄まされた金属的な精緻の文体の上に構築されていることです。それは、博覧強記の芥川が、書物を通して人間や人生の見方を学び、現実の生活からの体験に乏しく、世間的にはむしろ幼稚ともいえる精神構造にあることです。それゆえ、俳句づくりには適していたと思われるのかもしれません。芥川により言葉が継ぎ合わされ、いかにもそれらしい風景描写として、現実よりも本物らしい情景が浮かびあがってきます。
■しかし、芥川と生前よく俳句の話をし、激論を交わした友人の萩原朔太郎は、芥川の俳句を「末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ジレッタンチズムの衒気〈げんき〉で露出したようなもの」と評しています。つまり、芥川の俳句は、彼自身の感動のないまま、ただ知識に頼って作られた句から生まれる、本物らしいが、強いて拵えたような句、人工的に作られた、魂の叫びのない、自然の広がりのない情景となっていて、そこに繊細かつ都会的な芥川の俳句の特異性と魅力とともに、限界があったといえるのでしょう。 (七波)
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■日本のレオナルド・ダ・ヴィンチこと平賀源内が、俳人であったことはあまり知られていないようです。郷里の讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)で満17歳から28歳まで、大坂の椎本(しいがもと)才麿の流れを汲む指月堂(しげつどう)芳山に就いて俳句に打ち込んでいました。俳号は李山。志度李山とも白石李山とも称していました。 ■白石は本姓で、源内は高松藩米蔵の御蔵番白石茂左衛門良房の三男として享保13年(1728)に生まれました。幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)、元服して国倫(くにとも)、通称を源内(または元内)と呼び、父の死により家督を継いだ21歳から祖先の平賀姓を名乗り始めています。 ■陶村(香川県綾歌郡綾川町陶)の三好喜右衛門に本草学(薬学・医術)を学んだ源内は、藩内で頭角を表し、宝暦2 年(1752)から3年(1753)にかけて約1年間を長崎に遊学しています。本草学や医学、オランダ語、油絵など学んで帰郷するも、宝暦4年(1754)26歳の時に、「近年病身」を口実に、15歳年下の末妹お里与(りよ)に従弟岡田権太夫を婿入りさせて家督を譲ってしまいます。本草学の研究に打ち込む傍ら、宝暦5年(1755)1月には「量程器」と呼んだ万歩計を作製、さらに3月、藩の重臣木村季明の依頼で「磁針器」を製作しています。源内27歳の時でした。 ■陶器の製造など藩に新風を吹き込んだものの、世間の風当たりが強く、源内は宝暦6年(1756)3月、本草学の完成のため、江戸に出立することとなります。志度を出て海行、小豆島を左に淡路島を右に見て播磨灘を明石に至り、そこから大坂に出て、有馬ほか畿内各地に遊んでいます。その間の俳諧紀行『有馬紀行』が残されています。
■紀行集の冒頭は、志度での送別会の句です。 井の中をはなれ兼たる蛙かな 長崎でオランダや中国そしてその先の広い世界への目を見開かれた源内は、讃岐では井の中の限られた世界であることを痛感し、江戸へ出ることを決意したのです。しかし、二度と戻れぬことになるであろう故郷を捨て、母と妹夫婦、親友を残しての断腸の思いであったのです。
■次に、志度を出て明石に向かう海上で詠んだのが掲句です。源内が磁針器を製作したのは前年のことで、また、長崎で磁石が北を指し、外国ではそれが航海に利用されていることを知識として得たばかりの源内でした。早速に新知識を句の中に詠みこんでいます。
■源内の句を受けたのか、同時代を生きた与謝蕪村の安永3年(1774)の句に、 指南車を胡地に引去ル霞哉 があります。「指南車」とは、中国古代の方向を指し示す車のことで、木像を載せて歯車の仕掛けで常に南を指すように仕組んだ装置です。指南車を先頭にした遠征軍が、霞とともに胡地へと去っていったという句意です。
■ところで、蕪村は、すでに讃岐で次の句も詠んでいました。 東へもむく磁石あり蝸牛 前書きに「西讃に客居(かくきょ)して東讃の懶仙翁(らんせんおう)に申(もうし)をくる」とあり、明和4年(1767)に詠まれ、翌年5月27日の八文舎会の句会に兼題「蝸牛」の句として提出されています。磁石といえば北を向くはずだが、西讃岐のカタツムリが東を向くのは、その方角に強い引力(懶仙翁)があるかららしいという意の句です。
■ちなみに、『有馬紀行』には源内の句は47句あり、上記のほか以下のような句が収載されています。 疵(きず)付る牛の足目や砕米薺(れんげそう) 垂乳女(たらちめ)の恩新(あらた)也更衣 湯上りや世界の夏の先走り 逗留の指を延すや若楓 谷深み玉や積らん白牡丹
■江戸に出た源内は、田村元雄(号藍水(らんすい))に師事し、本草学を修め、昌平黌(しょうへいこう)にも学びます。その後の八面六臂の活動と奇人ぶりは周知のとおりです。物産学や油絵では鳩渓(きゅうけい)と号し、戯作では風来山人、天竺浪人、紙鳶(しえん)堂風来と、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくちきがい)と称し、エレキテルのほか火浣布(かかんぷ)の発明はいうに及ばず、本草学、文芸、陶芸、鉱山開発等、多才多技を究めました。
■しかし、安永8年(1779)11月21日の未明、誤って人を殺傷し、江戸の獄中で12月18日悲運の生涯を閉じます。享年51歳でした。盟友の杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に葬り、その傍らに碑を立てます。その結びに「あゝ、非常の人。非常の事を好み、行い、此れ非常。何ぞ非常に死するや」と書いて、その生涯を総括してみせました。源内は、辞世ともみなされる最後の句「乾坤の手をちぢめたる氷かな」を残しています。
■ところが、ここで終わらないのが平賀源内です。源内生存説が存在します。私の郷里、静岡県牧之原市福岡(旧相良町福岡)の長勝山浄心寺に、今でも平賀源内の墓と源内焼の花瓶が残されています。
■実は、平賀源内の庇護者、老中田沼意次と杉田玄白の計らいで、源内の親友で伝馬町の元獄医千賀(せんが)道隆をして源内をひそかに脱出させ、意次の五万七千石の城下町・遠州相良に潜伏させたのだというのです。相良町前浜には隠棲していた「源内屋敷址」が残されています。源内は相良で80歳まで生きていたといわれていますが、その真偽はともかく、寄る辺として、遠く古郷をそれこそ磁石に探る思いであったのでしょう。 (七波)
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■愛と死と孤独の作家・福永武彦の昭和28年8月の句です。前書きに「堀 辰雄逝きて百日」とあります。この年の5月に、福永武彦は岩松貞子と結婚しました。同月の28日に堀 辰雄が亡くなり、福永は「堀 辰雄全集」の編纂委員として、信濃追分の油屋に滞在し、編集に当たります。その合間に書き継がれたのが、清瀬のサナトリウムを舞台に描いた小説『草の花』でした。福永にとって堀は小説の師です。「我々はロマンを書かなければならぬ」という堀のことばに、福永は「一種の魂のリアリズムといったもの」を学び、本格小説を試みます。
■昭和16年の夏、友人森 達郎の軽井沢の別荘ベア・ハウスに滞在中に、福永は堀の知遇を得て、以後師と仰ぐこととなります。結核で静養をしていた堀は、よく後輩の面倒をみていたようです。堀の推薦で小説「塔」は「高原」第1輯に掲載され、「アプレ・ゲール クレアトリス」の一冊として出版されます。また福永は、昭和17年の秋に、加藤周一、中村真一郎、窪田啓作、白井健三郎、原條あき子ら10名で文学研究グループ「マチネ・ポエティク」を結成し、定型押韻詩(脚韻詩)を試みます。戦後まで続いたその運動は、昭和23年に『マチネ・ポエティク詩集』として結実しました。さらに、加藤周一、中村真一郎と文化・文学時評を共同執筆し、『1946文学的考察』として刊行、一躍注目を集めました。
■実は、昭和19年9月に、福永は詩人の原條あき子(山下 澄)と結婚していました。翌年7月には長男夏樹も誕生します。この夏樹が、後に作家となる池澤夏樹です。しかし福永は、昭和21年に疎開先の北海道の帯広で肺結核と診断され、22年3月に東京清瀬の国立東京療養所に入所、28年3月に退院するまでの7年間を結核の療養所生活を余儀なくされたのです。ペニシリンやストレプトマイシンといった抗生物質がなく、当時、結核は死病とされていた時代でした。そのため、昭和25年12月に原條と離婚、後に彼女は夏樹を連れて別の男性と再婚します。
■この清瀬の国立東京療養所で、福永の隣室にいたのが石田波郷でした。当時の波郷は、「馬酔木」を辞し、「鶴」に専心、さらに「現代俳句」を創刊していましたが、昭和23年5月に入所し、3次の成形手術で肋骨を切除したのです。この間の作品は句集『惜命』となり、療養俳句の金字塔と評されました。久保田万太郎の教えを受けた波郷から、福永は俳句の面白さを教えられたのです。当時の波郷の代表句に、「七夕竹惜命の文字隠れなし」「白き手の病者ばかりの落葉焚」「雪はしづかにゆたかにはやし屍室」などがあります。
■波郷のそのまた隣室にいたのが若き日の結城昌治でした。彼もまた胸郭成形手術で左右の肺の多くと肋骨を12本切除していました。波郷に就いて散平と号し、俳句を始めていたのです。このとき、結城は福永から推理小説の面白さを教えられ、小説を書くことを勧められたのです。そして、誕生したのが、結城の出世作となる『ゴメスの名はゴメス』でした。その後、『夜の終わる時』で推理作家協会賞を、『軍旗はためく下に』で直木賞を受賞します。結城の作家活動の基盤は、福永との交友のなかから形成されたのでした。
■昭和54年8月、フランス文学者として、詩人として、日本文学大賞受賞の小説家として、SF作家船田学として、探偵作家加田伶太郎として、モスラ映画の脚本家として、多くの俳句や短歌を残し、マルチの才能を使い果たした福永は、佐久において61歳の生涯を閉じたのです。福永の句に、「鈴蟲の彼岸にて鳴く夜もありき」「みんみんや血の気のなき身を貫徹す」「點滴や芍薬つひにひらきたる」「春雨に重たき京の瓦かな」などがあります。
■結城は晩年、中断していた句作を再開し、『歳月』『余色』の句集を残しました。結城の句に「いくたびも死にそこなひしゆかたかな」「秋風や逢ひたきひとはみな故人」「降る雪や余生といふもやすからず」などがあります。死と隣り合わせの人生を課せられた3人が邂逅し、福永は波郷に出会ったことで波郷を師とし俳句の世界に遊び、結城は波郷と福永に出会ったことで生涯を決定づけたのです。
■掲句は堀 辰雄の百か日忌に詠まれたものでしょうか。故人の死後百日目の供養のことを「百か日忌」、略して「百か日」といいます。故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で、「卒哭忌」ともいわれ、故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを泣きやむ日を意味します。また、たたうは、たとうで「畳紙」のことです。懐紙であり、文人が詩歌をしたためる詠草です。堀が亡くなって夏が過ぎ、もう秋となったのか、懐紙には、悲しみに涙をぬぐった薄湿りが残っている、悲痛な想いにうちしがれて過ごしてきたが、これからは泣くのはやめて、たとう紙に詩歌をしたため、文学者として生きていこう、という意が込められているのでしょうか。 (七波)
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■これは、正岡子規のとりなしで明治28年9月6日の『海南新聞』(愛媛県の地方紙。現在の『愛媛新聞』)に掲載された夏目漱石の句です(『漱石全集』第12巻所収)。漱石はこの年の4月、友人の菅 虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として赴任します。漱石の俸給は校長よりも20円高く月額80円(当時の子規は3、40円)という破格の待遇でした。
■日清戦争の従軍記者として中国にいた子規は病を得て喀血、神戸病院に入院、そして須磨の保養所に転地します。このとき付き添っていたのが高浜虚子でした。子規はその後、療養のため松山に帰郷、8月27日に漱石の下宿である「愚陀仏庵」に転がり込み、10月17日まで居候を決め込みます。
■2階に漱石、1階に子規が住むという生活が始まると、連日、子規の門下生が押しかけ、深夜まで句会が行われました。のちに「ほとときす」を創刊する柳原極堂のほか、中村愛松、野間叟柳、伴 狸伴、村上霽月、御手洗不迷らの松山松風会の面々です。その句会により、本を読むどころではなく、〈止むを得ず俳句を作つた〉のが、先の漱石の句です。漱石は、子規の弟子として実に2,450もの俳句を作ったといわれています。ちなみに、私の高校の先輩である八木 健氏により、平成21年の夏に「愚陀仏庵」で114年ぶりに「松風会」の句会が復活しています。
■掲句にある建長寺は、巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の大本山です。今から756年前の建長5年(1253年)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立したわが国最古の禅寺です。漱石のこの句は、一見、見たままを素直にありのままに詠んだ句のようです。
■ところで、この句、どこかでみたことがあるような…。そうです。子規のもっとも有名な、 〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉 です。この子規の句は、漱石の句よりも2か月後の明治28年11月8日の『海南新聞』に発表されます。東京に帰る途中、子規は漱石から10円を借り、奈良に立ち寄り、人口に膾炙されるこの句を詠んだのです。
■奈良で5個も6個も柿を食べた子規は、〈柿などゝいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。〉(「くだもの」明治34年)と回顧しています。
■しかしこのとき、子規が実際に聞いたのは東大寺の鐘の音であったようです。そればかりではありません。子規は明治30年の蕪村忌に、漱石を柿になぞらえて、〈漱石君 ウマミ沢山 マダ渋ノヌケヌノモマジレリ〉(「発句経譬喩品」)と評しているのです。当時の漱石には写生という概念はなく、俳句はレトリックとアイデアで作ることを信条とし、俚言や先行の俳句を換骨奪胎した俳句を沢山作っています。一方の子規も、明治28年ころは、まだ言葉遊びの句を作っています。
■そこで漱石の先の句は、「金が尽けば食べるのにも困るであろう」と子規に投げかけ、大阪・奈良で漱石から借りた金を使い果たしてしまった子規は、「漱石というウマミの柿を食えば金が成ってくるのだよ」と、漱石に応えている挨拶句のようでもあるようですが、これは穿ち過ぎでしょうか。 (七波) |