幸せを運ぶ十七音

 

■立山の北壁削る時雨かな
(棟方志功)
 
■わが魂は海獣ならんと欲す
(石原慎太郎)
 
■不二筑波一目に見えて冬田面
(三遊亭圓朝)
 
■ぼたん雪が流れに消える 鳥の羽おと
(河村目呂二)
 
■夏の野に幻の破片きらめけり
(原 民喜)
 
■ギヤマンの船だす秋の港かな
(竹久夢二)
 
■寒鯉やたらひの中に昼の月
(小津安二郎)
 
■御山のひとりに深き花の闇
瀬戸内寂聴)
 
■間断の音なき空に星花火
夏目雅子)
 
■蓬餅あなたとあった飛騨の夜
吉永小百合)
 
■秋の陽をまぶたに乗せて駱駝ゆく
吉行和子)
 
■にごり江に夕日のあはし鴨下ル
市田ひろみ)
 
■天涯に一粒落ちて冬木立
(中島誠之助)
 
■菜の花の群れから離れ独り咲く
(増田明美)
 
■稲妻の去り行く空や秋の風
(稲妻雷五郎)
 
■顔見世や奈落に消ゆる御曹司
(大澤孝征)
 
■亡き妻が眠りし庭に彼岸花
(日野原重明)
 
■秋灯机の上の幾山河
(吉屋信子)
 
■陽炎に狐ふりむき消えにけり
(吉村 昭)
 
■目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
(寺山修司)
 
■水難の茄子畠や秋の風
(若尾瀾水)
 
■花はみな四方に贈りて菊日和
(宮沢賢治)
 
■村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ
(渥美 清)
 
■春雨やジヨツトの壁画色褪せたり
(高村光太郎)
 
■行き暮れてここが思案の善哉かな
(織田作之助)
 
■さみだれの墨染衣濡らしをり
(松本幸四郎)
 
■うちの子でない子がいてる昼寝覚め
(桂 米朝)
 
■何もかも言ひ尽してや暮の酒
(三島由紀夫)
 
死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き
(尾崎紅葉)
 
紫陽花や身を持ちくづす庵の主
(永井荷風)
 
春服の色教へてよ揚雲雀
(太宰 治)
 
■人去つて空しき菊や白き咲く
(芥川龍之介) 
 
■古郷を磁石に探る霞かな
(平賀源内)
                 
■秋立つやたたうに残るうすじめり
(福永武彦)
 
■鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
(夏目漱石)
 
 

                  

            

                                 

  つれづれなるままに

 

■日本植物学の父・
 牧野富太郎の俳句 
 
■市川團十郎代々の俳句

■奈良より多武峯、そして山科へ

■原爆詩人・峠 三吉の未収録句

■歌舞伎役者・坂東彌十郎の俳句

■猫の俳句ー彫刻家・朝倉文夫

■彫刻家・北村西望の俳句

■陶芸家・小野珀子と俳句 

■コロナ禍における俳句

■建築家・山田 守の俳句      

■節分ー追儺、豆撒き、
 そして恵方巻へ 
 
■土屋文明と俳句
 
■江戸川乱歩の俳句    
 
■車持君与志古娘
 
■新元号 「令和」
 そして〝梅花の宴〟
 
■グレイクリスマス 
                                
■「今」 を詠む俳句で
 「過去」 を詠むメソッド
 
■写生と取り合わせ
 
■命の俳句
 ー狼となる金子兜太                
 
■風紋~青のはて2017~
 -宮沢賢治の終着
 
■天皇の白髪
 
■伊勢偉智郎の絵と
 いせひでこ、そして柳田邦男
               
■保武と忠良、
 そして坂井道子の句
 
■俳句への道(加藤楸邨)
                
■それでも鷹は飛んで行く
                  
■根岸庵律女
 
■銀河鉄道の恋人たち
 ーミュージカル・エレジー
 
■完了・存続の 「し」 について   

■『風叙音』 第十号刊行祝賀会  

■相良凧と友ゆうぎ    

■先生のオリザニン  

■三Hクラスの俳人たち

■ジャズライブより
 ーMALTA&銀座スウィング

■松井茂樹の光と翳

東 悠紀恵の美の世界

■最長老ジャズ・ピアニストの死                                 

■アイリーン・フェットマンの絵画

■マリー・ローランサンと堀口大學

                   

                                                 

  風叙音・fusionの和

             

■八木 健さんの句
 ―滑稽俳句の世界

          

              

                                         

  俳句は楽し―吟行記

         

■鳩山会館から旧古河庭園へ
 ー関口芭蕉庵・細川庭園
 
■川越ー喜多院・本丸跡・
 蔵造りの町並み界隈
 
■横浜ー山下公園・中華街・
 元町・山手界隈

■赤坂・迎賓館・四谷界隈

■鎌倉

■小石川後楽園・神楽坂・
 湯島天神・旧岩崎邸

■深川界隈

■上野・根岸

■葛飾柴又

■戸定が丘歴史公園

■21世紀の森と広場

■京都・大津吟行記

■飛鳥・吉野吟行記

          

                              

  受贈句歌集

        

■風薫る

■疑似幾何学者のほほえみ

句集 墨水

句集 一都一府六県

■花もまた

句集 街のさざなみ

■はじまりの樹     

■鬼古里の賦

■微熱のにほひ

■森の句集               

■大輪靖宏句集             

■槙

■こでまり

■路地に花咲く

■伊東肇集

■精霊蜻蛉

■鯊日和

■いのちなが

■過ぎ航けり

■夏の楽しみ

■福寿草

■月の兎

                   

      

            

  仲間(会員)募集中


風叙音・fusionでは、一緒に俳句を楽しむ仲間を募集しています。

俳句に興味のある方のご参加をお待ちしています。「問い合わせ」メールにて、ご連絡ください。

      


                      

         

  つれづれなるままに
 
「風叙音」 誌上で連載中!
 
                ■日本植物学の父・牧野富太郎の俳句
                
                ■市川團十郎代々の俳句
 
                ■奈良より多武峯、そして山科へ
 
                ■原爆詩人・峠 三吉の未収録句
 
                ■歌舞伎役者・坂東彌十郎の俳句
 
                ■猫の俳句ー彫刻家・朝倉文夫
 
                ■彫刻家・北村西望の俳句
 
                ■陶芸家・小野珀子と俳句
                
                ■コロナ禍における俳句
 
                ■建築家・山田 守の俳句
 
                ■節分 (追儺、豆撒き、そして恵方巻へ)(前・後)
               
                ■土屋文明と俳句
 
                ■江戸川乱歩の俳句    
 
                ■車持君与志古娘
 
                ■新元号 「令和」 そして〝梅花の宴〟
 
                ■グレイクリスマス 
                                
                ■「今」 を詠む俳句で 「過去」 を詠むメソッド
 
                ■写生と取り合わせ
 
                ■命の俳句ー狼となる金子兜太  
              
                ■風紋~青のはて2017~-宮沢賢治の終着
 
                ■天皇の白髪
 
                ■伊勢偉智郎の絵といせひでこ、そして柳田邦男
               
                ■(舟越)保武と(佐藤)忠良、そして坂井道子の句
 
                ■俳句への道(加藤楸邨)
                
                ■それでも鷹は飛んで行く
                   
                ■根岸庵律女
 
                ■銀河鉄道の恋人たちーミュージカル・エレジー
 
                ■完了・存続の 「し」 について   

                ■『風叙音』 第十号刊行祝賀会  

                ■相良凧と友ゆうぎ    

                ■先生のオリザニン  

                ■三Hクラスの俳人たち

                ■ジャズライブより―MALTA&銀座スウィング 

                

  建築家・山田 守の俳句

  

青 山

 あなたは東京・南青山にある旧・山田 守(まもる)邸をご存知だろうか。

 アイビーホール青学会館の向かいの一階に蔦珈琲店がある建物といえば、「ああ、知っている」という方もいるだろう。昭和34年に竣工したRC構造の3階建てで、螺旋階段を中心にY字型に曲面と自由曲線を描いた建物だ。

 平成29年4月12日から23日まで、没後50年を記念する「『建築家・山田 守の住宅』展ー没後50周年・自邸公開ー」が開催されたこともあった。

 日本における近代建築運動の草分けであり、建築家の巨匠であることは知っていたが、最近になって、その山田が実は「酒と俳句をこよなく愛した建築家」であること、鎌倉霊園にある墓碑の傍らに自作の句碑があることを知ったところである。

・アトリエに籠りて久し鰯雲

 山田の俳句である。自邸兼設計事務所分室である東京・青山南町6丁目57番4号(現・南青山5丁目11番20号)のアトリエで詠んだ句であろう。

 ここでは建築家・山田 守の人生とそれに寄り添う俳句とを見ていきたいと思う。

建 築

 といっても、建築に興味がない方にはピンと来ないかもしれない。そこで、東京の北の丸公園にある武道の殿堂であり、ロックの聖地でもある「日本武道館」を設計した建築家といえば、分かりはいいだろうか。

 また、京都駅前のランドマークでもある「京都タワービル」を設計した建築家といえば、ご理解いただけるだろうか。

 山田は、近代合理主義と自由曲線との融合美を目指し、‶局面の魔術師”と呼ばれた日本を代表する先駆的建築家であったのだ。

羽 島

 明治27年4月19日、山田は岐阜県羽島郡上中島(かみなかしま)村字長間(現・羽島市上中町長間)の豪農の家に生まれた。

 昭和52年11月30日に刊行された森 澄雄の第四句集『鯉素(リそ)』に、

・炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島

 とあるように、開業当時の東海道新幹線の岐阜羽島駅は田園地帯にあった。

 その岐阜羽島駅から名古屋寄りへ車で数分の地に山田の生家はある。平成13年10月に区間廃線となった名鉄竹鼻線の長間駅から歩いて5分ほどのところであった。

 瓦葺きの長屋門と塀に囲まれた千坪の広大な敷地に山桜、樅、檜、楓、銀杏などの巨木が鬱蒼と繁茂する家に、父・弘三の七男三女の四男(五番目の子)として生まれ、当初は守(もり)と呼ばれていた。

 母の良(やや)は弘三の三番目の妻で、良の最初の子が山田であった。

・思ひ出は地を這ひて咲く桃の花

 この句は後年、実家に帰郷した際に山田が詠んだもので、「帰郷」の前書がある。

廃 校

 明治34年4月に、山田は上中島村立上中島尋常高等小学校に入学した。当時の校長は菱田常太郎であった。

 この小学校は、昭和16年4月に上中島国民学校に、戦後の22年4月に上中島小学校にと改称され、29年4月に羽島市が誕生すると、羽島市立上中小学校となった。

 しかし、昭和34年12月31日をもって廃校となっている。ゆえに、山田は母校の小学校がなくなったことを知って俳句に詠んでいる。

・西濃の母校いま亡し青嵐

 明治40年に上中島尋常高等小学校を卒業した山田は、岐阜県立大垣中学校(現・岐阜県立大垣北高等学校)に進学した。

大 垣

 寄宿舎から通学した大垣中学校の制服は海軍式の七つボタンで、皆、脚に海軍式の白脚絆を巻いている。

 小学校時代から絵を描くことが好きな山田は中学から大学まで絵と共にあった。

 明治42年9月17日に、大垣中学校へ皇太子殿下(のちの大正天皇)の行啓があり、その1年後に、「行啓記念日」と「行啓記念学術奨励会」が設立され、第一回学術奨励会で山田は水彩画により銀牌を受領した。その絵には、鬱蒼とした森の中に画面を圧倒する大樹の幹が中央やや左に描かれている。

 なお、昭和12年12月発行の「大中同窓会報」の卒業生消息欄に、山田は次のように紹介されている。

 「山田 守君 東京市大森区新井宿一ノ二二九七からの便り。大正九年東大建築出。同年より引続き逓信技師。昭和四年五年外遊。趣味としては俳句、運動としては独りハイキング、登山、水泳。蓄財なくやゝ白髪を交う。」

・青芝の集ひの中に師にも遇ふ

金 沢

 明治45年3月、大垣中学校を卒業した山田は、大正2年9月11日、第四高等学校(現・金沢大学)第二部甲類に入学した。第二部は理科系で甲類は工学志望であったが、金沢時代の山田で目を引くのは、四高洋画会の創立とその活動であろうか。

 大正5年10月26日に山田の提唱で生徒控所において第一回展覧会を行い、22名の参加者を得て60点の作品が展示された。

 画家志望であった山田は、「温室」「雨の二見」「郷里の冬」「暮れゆく山」「金石の浜」「ゆうかり」「野田山にて」の都合7点の油絵を出展した。

 翌年は4月28日から3日間、商業会議所において第二回展覧会を開催している。俳人の大谷繞石(じょうせき)こと英文学者の大谷正信教授が会長となり、山田ほか2名が幹事であった。

 商業会議所の会頭の後援もあって、四高をはじめ女学校の先生の参加を得て、地元の新聞社が取材に訪れ、その模様が掲載された。山田は「砂丘の春」と「ながれ」の2点を出展している。

 同級生の神保成吉(じんぼせいきち)の妹で後に妻となる壽(ひさ)は、当時、石川県立金沢第二高等女学校(現・県立金沢桜丘高等学校)の生徒で、先生に引率されて展覧会を見に出かけたという。

東 京

 大正6年7月1日、第四高等学校を卒業し、同年10月13日、東京帝国大学工科大学建築学科に入学、本郷区台町43の福栄館に下宿した。

 また、大正8年には満鉄実習があり、ドイツの新建築を見るため中国・青島に足を延ばしている。

 当時の建築学科は意匠と構造からなり、建築は芸術品ではなく実用品であるべき、という構造派が席捲しようという時世であった。

 これに対し、帝大の学生であった山田や堀口捨己(すてみ)、石本喜久治ら6名は「分離派建築会」を結成、構造合理主義一辺倒な建築観に異を唱え、より自由な造形表現に価値を見いだすべく立ち上ったのであった。

 大正9年2月1日に同人習作展を開催すると、同月5日の「朝日新聞」に「生気潑溂、奔放自在真に芸術的興奮の結晶」であり「若き同人諸君の首途(かどで)を壮としてそが光栄ある発展を祈る」と紹介されたのであった(奇(く)しくも、石本は後に朝日新聞社の社屋を設計している)。

宣 言

 大正9年7月14日の「朝日新聞」に予告記事が掲載され、18日から5日間、日本橋の白木(しろき)屋呉服店(のちの東急百貨店日本橋店)で第一回製作展覧会が開催されると、伊東忠太教授や芥川龍之介、岩波茂雄らが訪れるところとなった。

 展覧会は昭和3年までに7回開催(白木屋・三越など)され、その成果は3冊の作品集に纏められている。

「 我々は起つ。

過去建築圏より分離し、総の建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。」

 で始まる「宣言」は、大正9年2月1日の同人習作展で発表され、7月18日発行の『分離派建築会宣言と作品』(岩波書店)に掲載された。

 これは、それまでの建築様式から分離し新しい建築造形を目指すものであった。

逓 信

 山田は、大正9年7月10日に東京帝国大学を卒業して同月17日に逓信省(のちの旧・郵政省と電気通信省、現・総務省)に入省、経理局営繕課の逓信技手となり、4か月後には臨時電信電話建設局技師に任官されている。

 山田が携わることになる「逓信建築」とは、戦前の逓信省において郵便・電信・電話・電気事業の局舎等の施設を逓信省営繕課の官僚(技師集団)らによって設計された建築物であった。

 山田が最初に手掛けたものは「大阪中央電話局東分局」や「東京中央電話局牛込分局」であり、その後の主な逓信建築には、「下関電信局電話課局舎」「門司郵便局電話分室」「天下茶屋郵便局電話分室」「千住郵便局電話事務室」「甲府郵便局・電話局」「荻窪郵便局電話事務室」「熊本貯金支局」「広島電話西分局」など、枚挙に遑(いとま)がない。

 最も山田の逓信建築を代表するものが、大正14年9月10日完成の東京・大手町の「東京中央電信局」であろう。

 逓信建築史上、バイブル的存在の建物であった。パラボラアーチをリズミカルに並べた個性的なデザインにとどまらず、外壁柱を空調ダクトとして兼用させるなど、流水防火装置の設置、気送管システムの導入など、当時としては超ハイテク建築物であったのだった。

結 婚

 山田は、大正11年4月23日に築地の精養軒で結婚式を挙げている。山田28歳のときであった。新婦は第四高等学校の級友神保成吉の妹の壽(ひさ)で、明治34年9月6日生まれの20歳。

 新婚旅行は鎌倉で一泊して熱海へ。家に帰るなり、「これで儂(わし)は一人前になった。これからはお前次第で儂を駄目な人間にするか一流の建築家にするかが決るので、よろしくお願いします」と壽は言われ、翌日から山田の建築の講義が始まったという。

 壽の父・神保八十吉(やそきち)は初め官吏であったが、実業界に転じて運送業で成功、次いで土地家屋の売買でも巨利を収め、商業の発達に伴う石炭やコークスの需要を見込むと、その一手売買を行う石炭商として収益を挙げ、人口増加に伴う住宅難を見込むと、金沢市内各地に貸家を建築し、金沢で有数の素封家となった人であり、晩年は石川県石炭業界の最長老と称されたという。そのため、四女の壽にはすでに八十吉が決めた許嫁(いいなずけ)がいた。

 金沢市長町の神保邸は第四高等学校から近く、成吉の同級生たちのたまり場になっていた。その同級生に山田姓が二人いて、神保家の女中たちは‶綺麗な山田さん”と‶汚い山田さん”とで呼び分けていて、その汚い山田が壽に一途に恋心を抱いていた山田 守だったのだ。

 壽は許嫁の海軍士官との結婚が嫌だと言い出し、金沢にはいられないと母・柳子と上京することとなった。

 なお、成吉は京都帝国大学電気工学科を経て、山田と同様、逓信省に入省、戦後は電気工学者として明治大学教授となっている。

橋 梁

 大正12年9月1日の関東大震災後、後藤新平の指揮の下に意欲的な震災復興都市を創造するべく内務省に復興局が設立され、先進的技術者が集められた。山田は嘱託として橋梁課に関わり、独創的な橋のデザインをしている。

 隅田川に架かる重要文化財の「永代橋」は、大正15年に震災復興の第一号として完成した。山田のデザインによる我が国で最初にスパンが100メートルを超えた優雅な曲線を持つ鋼製アーチ橋だ。

 また、昭和2年完成のお茶の水の「聖橋」は鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。

 新潟市の中心部にあってランドマークとなっている「万代橋」は、信濃川に架かる鉄筋コンクリート製の六連続アーチ橋で、昭和4年に完成した。昭和39年の新潟地震においてもびくともしない堅牢な橋で、重要文化財となっている。

外 遊

 山田は逓信省から10か月間の海外視察を任命され、昭和4年8月1日、九州の門司港から日本郵船の伏見丸に乗船し、各地に寄港しながら9月10日にマルセイユに上陸、17日に陸路を経てベルリンに到着した。

 このベルリンを基地にして、ヨーロッパ各都市の現代建築を視察、また第二回CIAM(近代建築国際会議)に参加するなど、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーンらを訪ね、近代建築運動に触れ、大きな影響を受けた。

 昭和5年4月初めに新鋭高速船ブレーメン号で大西洋を横断してアメリカに渡り、5月3日に天洋丸に乗船してサンフランシスコからホノルル経由で帰国の途に就き、同月19日に横浜に到着した。

 なお、この旅の記録として逓信省の同僚らに宛てた「山田守君通信」や、家族に宛てた手紙、建築誌「国際建築」「新建築」等へのレポートのほか、自身が撮影した十六ミリのフィルム3巻があり、帰国後に「建築雑誌」に掲載された報告書に細かく記述されている。また、それら手紙類は後年、『建築家 山田守の手紙』として一冊に纏められている。

・怪しげな独逸語会話独逸ビール

 この句は、後年、ドイツでの視察を懐かしみ、新宿のホーマーというビヤホールで詠んだものであろう。

病 院

 昭和10年に完成した「広島逓信診療所」は、後に数々の大病院を手掛けた山田にとって、初めての病院建築であった。白い壁に大きな開口、方立の細いサッシ、屋上のカンチレバーのサンルーム等から構成された軽快かつスマートな建物であった。

 特に、昭和12年10月に完成した東京・飯田橋の「東京逓信病院」は、戦前の近代建築を代表する名建築として、日本近代建築史では必ず言及されるものである。それまでの病院建築のイメージを払拭した明るいモダニズム建築で、パビリオン式ブロック・タイプの病院建築の最右翼に位置するもので、一つのエポックを画したと言われている。

 佐分利 信、水戸光子、高峰三枝子らが出演した昭和14年12月1日公開の映画「暖流」(監督・吉村公三郎、松竹大船)では、当時、東京一美しい建物と言われた東京逓信病院が舞台として使われていた。

・薫風や窓の映れる銀の匙

 これは山田の俳句である。東京逓信病院の白亜のタイルの壁と青い大きな窓ガラスによって構成された国際様式の建築の直線的なデザインが、銀の匙に映っている様子を詠んだものであった。東京逓信病院の設計により山田は逓信協会賞を受賞したのである。

 なお、山田は昭和10年に日本技術協会常務理事となり、15年に逓信省営繕課長を歴任、19年に勲三等瑞宝章を受章して、20年に逓信省を退官した。

Y 字

 山田はまた、多くの病院の設計にも当たっている。戦後に独立して事務所を構えて設計した記念碑的作品が、昭和28年度の芸術選奨の対象となり、文部大臣賞を受賞した「東京厚生年金病院」である。

 飯田橋の都電通りに面したこの建築の最大の特色は、緩やかな曲線からなるY字形のブロックプランの創出であった。Y字の中央部に垂直動線やコモンスペースなどを集約し、翼部に各病室を設けることで、集中管理方式を採用、またバルコニー側の開口部を天井いっぱいまで設けるなど、構造上の工夫がされている。

 これ以降、Y字型による病院や学校が数多く手掛けられ、アールの使用は平面形状に大胆に取り入れられるようになった。放射状プランや螺旋状の階段、スロープなど、動的な内部空間にプリズムガラスによる光の効果も加わり、豊かな空間へと発展した。

 昭和29年には、「大阪厚生年金病院」の設計により日本建築学会賞作品賞を受賞している。

・建築がわかりかけしや櫻ふくらむ

殿 堂

 「日本武道館」は昭和39年の東京五輪の柔道会場として建設された。当時すでに日本を代表する建築界の巨匠であった山田がこだわったのは、その形であった。

 「君主は南面す」の故事に因み、正面席を北側に設置して南を向くようにした。さらに東西から入場する選手が見えやすいように、また東西南北の方位を明確にするために正八角形にした。

 また、同館が東京五輪のシンボルとなるよう、日本ならではの美を装飾に採り入れた。3階席の窓は京の町家の格子窓を彷彿とさせ、富士山の裾野を引くような流動美の大屋根に武道の精神を表徴させた。さらに、大屋根の頂点に直径5メートルの、古来魔よけとして用いられてきた黄金の擬宝珠(ぎぼし)を置いた。

 工事期間わずか11か月、関係者の昼夜を分かたぬ奮闘によって、昭和39年9月15日、地上3階・地下2階建ての世界に誇る日本武道の大殿堂がついに完成した。こうした「日本精神の象徴」を追い求め、生み出された世界に類を見ないこの競技場は、海外のメディアや専門家からその美しさを賞賛されることとなった。

 大屋根には山田の指示で銅板が葺かれ、完成当時は赤茶色の目立つ屋根であったが、時が経つに従い、山田の意図したとおり緑色に錆びて、壮麗雄大な姿を北の丸の緑の杜に同化させている。

聖 地

 日本武道館で最初にコンサートを行った外国人の音楽家は、ロンドン生まれのレオポルド・ストコフスキーであった。彼は20世紀における個性的な指揮者の一人で、‶音の魔術師”の異名を持つ。

 昭和40年7月13日にストコフスキー指揮による日本フィルハーモニー交響楽団特別演奏会が行われた。その際、山田は指揮者の彼と握手をしてご機嫌となり、次の句を詠んだのだ。

・人無心ストコフスキー聴く薄暑の灯

 ザ・ビートルズの日本公演はその翌年、昭和41年6月30日から7月2日にかけて行われた。「日本武道の殿堂」にロックとは、と関係者らは一斉に反対の声をあげたが、公演は3日間、計5回、延べ5万人の観客を集め、日本武道館は若者らの熱狂に包まれた。

 爾来、日本武道館は世界各国からの大物アーティストの公演会場に選ばれ、もちろん日本人ミュージシャンの多くも日本武道館を目指したことから、「ロックの聖地」となっている。

 昭和39年、山田は藍綬褒章および勲三等旭日中綬章を受章した。

京 都

・仁和寺を過ぎ洛北の冬の山

・洛北の土柔かに踏む小春かな

・苔寺の縁に憩へば初時雨

・洛西の山裾は藪初時雨

・柊咲く小坪に交はす京言葉

 これらは京都で詠まれた山田の俳句である。京都は山田と切っても切れない場所となった。

 京都駅の烏丸(からすま)中央口前に聳え立っているのが京都タワーだ。ビルを含めると、その高さは地上131メートルあり、京都市内では最も高い建造物である。

 京都中央郵便局の跡地の活用に関して、かねてより京都商工会議所主催の懇談会が開かれ、昭和34年、京都市の財界を結集した株式会社京都産業観光センター(現・京都タワー株式会社)が創立され、山田にその設計の依頼がきたのだ。

 昭和36年、建設委員会が設置され、翌37年には建設計画の大要がまとまった。

美 観

 しかし、建設計画の段階において、当時の専務が横浜のマリンタワーを見て、当初予定のなかったタワーの建設を希望、昭和39年2月にタワーの建設が新聞で発表されると、川端康成、谷崎潤一郎、大佛次郎、司馬遼太郎、土門 拳、丹下健三など各界著名人や文化人、団体等から反対の声が上がり、マスコミを巻き込んで大論争となったのである。山田は一人沈黙を貫いた。

 なにせ、「東寺の塔よりも高いものは建てない」ことが千年の不文律となっていた京都で、歴史的景観との調和のありようが争点となり、政財界中心の建設推進派と、学者や文化人主導の反対派が世論を二分して議論されたが、これは都市の美観論争として日本で初めてのことであった。

 結局、高さなどの法規制が厳しい建築物ではなく「工作物」としてタワーが建設されることとなったが、この議論は昭和47年に施行された「京都市景観条例」に活かされることとなった。

意 匠

 山田は、京都の表玄関に恥じない作品を残したい、京都に新しい美を創ろうと考え、単なる武骨な鉄骨のタワーでは相応しくないとして、ラフスケッチから緩やかな曲線を描く円筒状の優雅なデザインを採用した。

 建築には日本で初めて炭酸ガス半自動溶接機が大々的に使用され、その構造には、鉄骨を一切使わず、厚さ12ミリから22ミリの特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ円筒型の塔身を作るというもの(モノコック構造)で、タワー外部に仮設タワーとクレーンを設け引き上げを行った。総工費は38億6400万円であった。

 なお、建設反対派の猛攻に驚いた施主側は、タワーの色をシルバーグレーにするよう要請したが、それは美に当たらない煙突のようなものと山田は一蹴、施主側を説得し、何種類もの見本の色をタワーに塗って京都の全方位から確認、最終的に開業当時の新幹線と同じミルキーホワイトを選択している。

灯 台

 このミルキーホワイトの京都タワーを蝋燭と見立てる人が多いが、そうではない。タワーの姿は、市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす‶灯台”をイメージしたものであった。

 山田は、将来、京都駅前にビルが立ち並ぶことを想定して、第二の地平線となる屋上に高さ15メートルに及ぶ円形のガラス張りの台座を設け、その上にタワーを設置した。京都のあらゆる角度から京都駅方面を見ると、台座から上のタワー部分のみ、灯台のみが見えるのだ。

 山田は、「京都タワーは決して京都を毒するものではなく、この価値が評価される日を、確信をもって待っている」と自信を示し、また、「京都には現代の我々がどうしても触れてはならぬ部分がある。しかし、残りの部分は生きている都市として、我々が造っていかなくてはならない。新しい京都はその背後にあくまで古い京都を静かに横たえているのであり、新しい京都そのものも古い美しさの変形にすぎないのだ」と語っている。

東 海

 山田は逓信省時代に後輩の松前重義らと技術者の地位向上と待遇改善を求める技術者運動に参加、これが高度な技術者教育を目指す教育機関の創設に繋がっていく。

 昭和16年12月に松前らにより創立された財団法人国防理工学園が翌17年4月に静岡県清水市(現・静岡市)の三保(みほ)に東海大学の前身となる航空科学専門学校を開設し、山田が校舎を設計した。その折に詠まれたのであろうか、三保の地名の句が散見される。

・不二のもと三保のものあり月見草

・冬ぬくき三保の浜辺の人出かな

 戦後、山田は東海大学の設立に関わり、昭和26年に理事に就任し、また東海大学工学部建設工学科教授として後進の指導に当たった。

 昭和30年の東京・代々木への移転に際しては代々木校舎の設計を行ったほか、各地の分校舎や附属高校の設計を順次、手掛けている。

 また、昭和37年に神奈川県平塚市へのキャンパス移転が計画されると、山田はその敷地選定を依頼され、富士山の眺望と水質調査により決定し、翌年の一号館から順に校舎の設計に携わっている。

視 察

 昭和40年10月30日、山田は欧米への視察に旅立った。持病のリウマチを抱えての晩秋から冬へのヨーロッパ5か国にアメリカ、ブラジルを巡る55日間の旅である。

・わが使命それと思へば爽かに

 前年から続く京都タワーと日本武道館における批難や攻撃から身を挺し、新たな建築への糧にすべく、東海大学が建設する水族館、海洋科学博物館、図書館のための資料収集と、新東京国際空港のための視察が目的であったが、唯一の愉しみは新造船ミケランジェロ号で大西洋を横断することであった。

・アマゾン越ゆ卓上にあるプラムかな

 しかし、12月23日、山田は疲労困憊の態で帰国した。翌年1月半ば以降には、旅の疲れと風邪が重なったのか、食欲がめっきりなくなり、

・大病のもとと怖るる春の風邪

 と詠んで養生に励み、4月に入るとやや恢復したかに思え、

・春の風邪忘るる如く癒えにけり

 と願いを込めて詠んだものの発熱が続き、5月19日、拒み続けていた入院が余儀なくなり、6月13日に帰らぬ人となった。死因は胃がんであった。享年72歳。

 東海大学湘南キャンパスの正門から伸びる中央通りの真ん中、五号館前に、日本を代表する彫刻家の舟越保武(ふなこしやすたけ)(本誌vol.18「つれづれなるままに」参照)による「山田 守先生像」が没後から1年後の昭和42年6月に建立された。像の後方に建立に協力した三千名もの名前が刻まれている。

俳 句

 山田の俳句について詳しく見ていこう。

 秋の季語に「山田守(やまだも)る」(山田守(やまだもり))があるからだろうか、山田の俳号は「山田まもる」と平仮名書きである。

 昭和32年の「若葉」5月号(第三十巻)の〈同人紹介〉欄に山田の「自己紹介」が掲載されている。それによると、山田が俳句を始めたのは昭和7年頃ということである。

 大正9年に逓信省の営繕課に入職すると、直属の上司に俳人でもあった大島三郎(俳号・三平)がいたが、当時は新建築問題に悩んでいて俳句は近づき難いものと思っていた。そのうち俳句を嗜む木村杢来(もくらい)が同職として勤めるようになると、大島の命令で1週間に1句作句することが課された。これが‶俳句始”であった。

 ちなみに、大島三平は、

・得し虫を嘴にたのしも四十雀

・好きなれば沢山蒔きぬ葉鶏頭

 などの句で知られており、また杢来の句には、

・殺される女口あけ菊人形

・彼芙蓉しづかに三日暮れてゆく

 などがある。

風 生

 また、逓信省には富安風生の主宰する「はゝき木会」(帚木会)があり、松藤夏山(まつふじかざん)、山本京童(きょうどう)、大橋越央子(えつおうし)等の俳人がいた。山田もやがて同会に参加して風生門下となり、また帝大俳句会の「草樹会」のほか種々のグループに参加して、生涯を俳句と共にすることになる。

 風生のほかは、あまり馴染みがないかもしれないので、それぞれの代表句を挙げると、

風生        

・みちのくの伊達の郡の春田かな 

・まさをなる空よりしだれざくらかな

夏山

・封切れば溢れんとするかるたかな

・抱へゆく不出来の案山子見られけり

京童

・春の日に似て凍蝶のあがりけり

・凍蝶のほろほろあがる茶垣かな

越央子

・夏服の汚れしままに勤めけり

・瓶に挿す梅まだかたし春星忌

 などがある。

活 字

 初めて活字化されて俳誌に掲載された山田の句が、昭和8年の「ホトトギス」9月号に掲載された、

・何か猫にねだられ乍ら胡瓜もむ

 であった。この句は師の風生が翌9年に詠んだ、

・何もかも知つてをるなり竈猫

 に通じるものがあるかもしれない。ちなみに「竈猫」は風生の造語であったが、この句により新季語に認められている。

 山田の句は、高濱虚子主宰の「ホトトギス」には、都合11句掲載されている。

 戦後には風生主宰の「若葉」へ、昭和31年からは遠藤梧逸主宰の「みちのく」への投句が、亡くなる昭和41年まで継続した。その間、昭和34年には朝日俳壇に中村草田男の選で、

・すずしろの花よ父母なき古里に

 など3句が掲載されている。この句は母の二十三回忌に帰郷した折の句であろう。

提 言

 建築家の立場から、山田は俳句についても先人の形骸にとらわれることなく自由を希求するよう、提言する人であった。

 昭和24年の「若葉」5月号(第二十二巻)に「俳句の自由と建築の自由」を、同7月号(同巻)に「俳句の自由と建築の自由について」を、山田 守の名で寄稿し、建築になぞらえて俳句も「芭蕉の形、虚子、風生の形にも捕はれてはならぬ」と言い、「日本の建築家が洋風建築をやると無闇矢鱈に粉飾を施し勝ちである」として、俳句も同様、徒らに虚飾粉飾を戒めている。

 また、昭和26年の「若葉」6月号(第二十四巻)の〈巻頭言〉に‶山田まもる”名義で「素質」を寄稿、書家の大野百錬の言葉から建築と俳句の素質について言及している。

句 集

 生前、山田は自ら句集を編むことはなかったが、昭和53年6月13日の山田の十三回忌に遺句集『夢多き』が非売品で作成され、関係者のみに配られた。

 そのタイトルは、古稀を迎え、設計事務所開設15周年の記念パーティーを上野精養軒で行った際、色紙に揮毫(きごう)した山田の句の、

・夢多きままに老いゆく古稀の春

 の上五に拠る。遺句集は「春」「夏」「秋」「冬・新年」に区分され、都合461句が収録されている。

 その遺句集には、師の風生が次の序句を寄せている。冥府路は「よみぢ」と読む。

・繪に古句に冥府路の風は寒くとも

 また、「みちのく」主宰の梧逸が序文を寄せている。その中で梧逸は、梧逸俳句と山田の俳句は対蹠的で、梧逸俳句が尋常型、山田の俳句は非尋常型だといい、天衣無縫とは山田の俳句にこそ言われることであるという。

・山上にツアラストラスも待ちたる初日出づ

 そして、梧逸は山田の俳句の大きな特色は、人名や地名などの固有名詞に重心が置かれている句がかなり多いという点だという。

・白牡丹傘寿風生・越央子

・杢来と昔よく来し鯰鍋

人 生

 山田自身の本質の一端を示す人生俳句を、五十代半ばから、山田はいくつか詠んでいる。「ニーチェがね」が口癖だった山田の俳句の真髄はそこにある。

・小春日の空に遊ばせゐる心

・老いぬれど働き生きん初日影

・己が道歩む外なし初詣

・人を愛し己を愛し初詣

・人おのおの使命尊し花の宴

・孤を愛す者は孤ならずトマト植う

・ゴッホ汝れ神かや人かや暖炉燃ゆ

・彼は無に我は実存暖炉燃ゆ

句 碑

 これら人生俳句の中で、山田自身のいちばんの自信作が、

・人にあり銀河にもある生死かな

 であった。

 日本武道館の設計者に決まった際、「読売新聞」のインタビューに応え、「庭の片隅にある鞍馬石にこの句を刻んで墓にしたい」と語っている。山田の墓所は、日本武道館のモチーフとなった富士山がよく見える鎌倉霊園の小高い丘の上(五区)にある。墓石の傍らに句碑があり、山田のこの会心の句が刻まれている。

 山田は昭和41年6月13日に亡くなっているが、同年7月号の「みちのく」に掲載された、

・四月三日箱根の奧の山さくら

・牡丹の芽ぐんぐんのびる日々たのし

・翁草ようやく伸び来花を待つ

 が、最後の活字化された句となった。辞世の句は、生まれ故郷への郷愁を詠んだ、

・初蛙聴くには遠く都市膨る 

 であった。

壽 句

 山田は旅先から葉書に俳句を書いて送っていたが、妻の壽は「駄作ばかりで…」と謙遜する。壽も俳句を嗜んでいた。建築を学んで陰ながら山田を支え続けてきた壽は、昭和60年4月5日に83歳で亡くなっている。その壽に尋常型の次の句があった。

・ぬくもりの残る茶碗に春来る

・たんぽぽの楽譜の如く風に舞う

・亡き夫の加護にすがりて喜を迎え

・白萩の咲きてせわしきこぼれ花

(七波)  

             
  
  
  

 

  東 悠紀恵の美の世界

 

 

▼あなたは同じ絵画を見るたびに、何かが変わってみえるという経験をおもちであろうか。東 悠紀恵(あずま・ゆきえ)の描く絵画は、見る者の魂の状態(エタ・ダーム)によって、見え方が変わってくるのだ。彼女の絵の中で特徴的なのは、人物像の「視線」だ。彼女の絵を見た瞬間、視線を強く感じるだろう。同じ絵画の同じ人物像でありながら、時に激しい拒絶的な視線であり、時に射抜くような恐ろしい視線であり、また優しい慈母のごとき視線であったりする。

              

 

▼東 悠紀恵が人物像を描くとき、人物の顔から、否、きっと“眼”から描きはじめるにちがいない。全体の構図ができあがる前に、彼女の手は動きはじめている。彼女が描いているというよりは、彼女自身が意識しようがしまいが、天から立体的かつ透視的に降ろしているのだ。そう思われるほどに、彼女の描く世界には魂が込められている。人形に魂が移入されるように、彼女の作品には、おびただしいほどの魂が投影されているのだ。

                

 

▼なぜなら、東 悠紀恵の描く世界は、あなた自身の視線の先にある、あなた自身の存在であり、あなた自身の心の中にある、あなた自身の真実だからだ。非現実の幻想的な絵画のモチーフに仮託して、あなたの心の中の真実を切り取ってみせているともいえる。ゆえに、彼女の作品を見た瞬間のあなたの心の中が、そこに照射されるのだ。

              

 

▼東 悠紀恵は、1981年静岡県裾野市に生まれ、名古屋芸術大学版画科に学んだ20代の画家だ。幼い時、闇雲に玩具を与えられるのではなく、自分で想像の世界を開いて、ひとり遊びを楽しんでいたという。2001年日本童画大賞(イルフビエンナーレ)入選、2002年第14回メルヘンイラストコンテストメ優秀賞・KFSアート・コンテストKFS大賞、2003年第15回ルヘンイラストコンテスト大賞受賞。2004年から毎年、銀座や渋谷で個展を開催し、数多くの挿画や装丁をこなす一方で、2007年より大衆演劇早乙女太一の背景美術を手掛けている。もともとは版画、立体造形美術から出発した人であったが、イラスト、油絵へと展開し、独自の画風を築きつつある今、最も注目されるマルチの才女なのだ。

               

 

▼東 悠紀恵の絵画の特徴は、まず技量の確かさ、絵のうまさであろう。構図の素晴らしさでもある。描く世界は中世ヨーロッパのモチーフから、和のテーストを加味した画風に緩やかに移行しているとともに、登場する人物も、その激しい表情から柔和な表情に、喧騒な世界から静謐な世界に変貌してきている。その技法も、キャンバスにアクリル絵の具や色鉛筆を何重にも薄く塗り重ね、さらに金箔を施し、乾いたら軽くヤスリをかけ、金箔を少し残しながら剥がしていくという独自の技法を編み出し、独特の世界観を築き上げている。

                 

 

▼私の書斎に架けられた東 悠紀恵の作品『約束』は、『響』と対をなすものであろうか。母娘とも思えるヴェールをかけた二人の女性が、言葉を交わすことなく、心の中で会話をしている。キリスト教における代母と洗礼を受ける女性にも見える。ただ、そこにあるのは、汚辱の心をイノセントに、神の前にすべてを曝した無垢の世界である。あなたが、それを受け入れたとき、あなたの心にも柔和な緩やかな時が流れるだろう。もしあなたが、あなたを咎める視線を強く感じるとすれば、それはあなたの心の中に葛藤があり、あなたの心の中に憤怒や蟠りがあるからだろう。

               

 

▼東 悠紀恵は、ますます進化していく、目を離すことができない本格的な画家である。なぜなら、彼女の描く世界は、絵画でありながら音楽でもあるからだ。彼女は、絵画という芸術の中に音楽という一見異質でありながら、融合し合う世界を築こうとしている。われわれは、東 悠紀恵の世界から魂の調べを、魂の響を聴くことができるのだ。 (七波)       

  
  
  

 

  最長老ジャズ・ピアニストの死

 

▼ジャズ史とともに生きた史上最高齢のピアニスト、ハンク・ジョーンズが死んだ。享年919カ月。228日の「新潟市民芸術文化会館」、それがハンクの最後のライブだった。

          

 

▼ハンク・ジョーンズは、1918731日にアメリカのミシシッピ州で生まれた。歌手だった母の影響で幼いときからピアノを弾き、13歳ですでに大人に交じりジャズ・ピアニストとして活躍している。40年代にニューヨークへ出て、48年から53年までエラ・フィッツジェラルドの伴奏者となり、57年ベニー・グッドマンのバンドに参加して初来日している。デキシーランド、スウィング、クールなどあらゆる分野のジャズを演奏し、マリリン・モンローの伴奏をする一方で、ペギー葉山や2006年のケイコ・リー、2008年の川井郁子のアルバムに参加している器用なピアニストなのだ。

 

          

▼しかし、ハンクは決して天才ではなかった。1960年代から70年代のピアノといえば、ハンクと同世代の“孤高の天才”セロニアス・モンクと“銀盤の皇帝”オスカー・ピーターソンが双璧の時代だった。その後のジャズ・ピアニストの系譜は、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレット、そしてブラッド・メルドーと続く。

 

           

▼いつからか、ハンクはスタジオ・ミュージシャンの色彩が強くなっていく。原曲のメロディーを大切にし、手堅くかつ個性的な美しいハーモニーを奏で、時に力強い繊細なタッチをみせるものの、決して自己主張をしない謙虚な演奏スタイルを貫いた。ハンクは名ピアニストであったが、その存在は地味な、そして名盤の陰になくてはならない名バイプレイヤーだったのだ。

 

           

▼往年のジャズファンであれば、ハンク・ジョーンズのピアノを聴いたことがあるだろう。「枯葉」で有名な1958年の“キャノンボール・アダレイの『サムシン・エルス』”。マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキーらとの名盤だ。ちなみに、このアルバムはマイルスのレーベル契約の関係で、キャノンボール・アダレイの名が冠せられたいわくつきのものなのだ。ほかにも、ハンクの参加しているアルバムには、チャーリー・パーカーの『ナウズ・ザ・タイム』、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』など、枚挙したらきりがない。

 

            

▼ハンクがジャズ・ピアニストとして復活したのは、1975年に日本のレーベル、イースト・ウィンドからアルバム『ハンキー・パンキー』が発表されたときだ。その1年後には、渡辺貞夫をリーダーとして『アイム・オールド・ファッション』が発表される。そのバックを、ハンク・ジョーンズ〈ピアノ〉、ロン・カーター〈ベース〉、トニー(アンソニー)・ウィリアムス〈ドラムス〉のトリオがつとめた。このアルバムによりハンク・ジョーンズは脚光を浴び、このトリオは日本の懐古趣味のジャズ・ファンの心をつかむ。

 

           

▼この成功により、1976年ハンクは「グレイト・ジャズ・トリオ」を結成し、メンバーを代えながらも、その人柄と誠実な演奏で日本での成功と人気を勝ち取り、作曲者として評価を得る。アメリカではほとんど紹介されることはなかったものの、日本全国での演奏活動、CMへの出演などにより、日本での人気は不動のものとなり、やがて海外で再評価されていく非常に稀有なアーチストだ。

 

            

▼とはいえ、ハンクの演奏のすばらしさは本物だ。ハンクの曲を演奏し、ハンクを尊敬してやまないチック・コリアとは、2006年に東京で共演している。ハンクは、いつも優しく、努力の人だった。毎日の練習を欠かさず、生涯現役を標榜し、91歳になっても握力を強化していたほどだ。脇役から主役に転じ、メジャーとなったハンク・ジョーンズは、2008年にブッシュ大統領から「アメリカ国民芸術勲章」を授与されている。 (七波)     

  
  
  
  アイリーン・フェットマンの絵画
 

 

▼アイリーン・フェットマンの描く世界は不思議だ。彼女の絵を見たものはみな、そこに風の揺らぎと光の放射を感じる。気がつくと、心が洗われるような愛に包まれ、優しさを感じ、幸せな気分になるのだ。人はみな彼女の絵に癒しを感じるのかもしれない。時間が経つのも忘れ、その絵の前で立ちつくし、素直な気持ちで、惚けたようにみとれてしまうのだ。

       

▼アイリーン・フェットマンは、1962年旧ソビエト時代にウクライナのキエフで生まれた。11歳で絵画選考エリートコースに選抜され、英才教育に拠る高度な絵画技術を身に付けた。その後、16歳のとき、一家でアメリカに移住し、クリーブランド美術大学に学ぶ。

       

▼カルフォニアの山の中に住む彼女の絵のモチーフは、ときにカルフォニアの海を見下ろす友人の別荘の中から、光眩しい外側に向かって心を発散させる。レースのカーテンをほのかに揺らす風や、やわらかな日差しが心地よく、花や果物が幸福感を増幅する。外の美しい緑の広がりと穏やかさ、その向こうに海の開放がある。また、ある時は、雨の日の窓辺から外に向かうメランコリックな心の発露であるが、そこには雨の恵みがあり、彼方には明るい空があり、明日への希望が見えてくる。

       

▼彼女の作品には、幼児期の娘以外に、人物はほとんど登場しない。仮に女性が現れても、後ろ姿の構図であって、登場人物からの先入観からくるイメージを払拭し、透明な光と風のそよぎの世界に、見る者のこころのあるがままに、想像を膨らませようとするかのようだ。

       

▼彼女は絵を通し、われわれに心の疲れを癒し、また明日へのエネルギーを注入してくれようとしているのかもしれない。 (七波)

  
  
 
  マリー・ローランサンと堀口大學
 
 

▼1929年3月に創刊された『オルフェオン』の巻頭の口絵を飾ったのは、マリー・ローランサン(18831956)の原色刷であった。それは第一書房から刊行された堀口大學(18921981)の編集による詩誌である。同じ1929年1月まで刊行された日夏耿之介・西條八十・堀口大學編集による『パンテオン』(第一書房)の第10号(最終号)にも、ローランサンの原色刷の口絵が巻頭を飾っているし、19285月刊行の『パンテオン』第2号にはモノクロ刷で掲載されている。

                

▼『パンテオン』にはアンリ・マティスやモーリス・ブラマンクなどの絵画が、『オルフェオン』にはジョルジョ・デ・キリコの絵画やジャン・コクトーのキリコ論も掲載されていて、西洋詩の紹介のみならず西洋絵画の紹介も兼ねていたようだ。これほどまでに、当時の西洋画が時を経ないで紹介されているのはなぜであろうか。

                

▼実は、1915年に堀口はスペインのマドリードでローランサンに出会っている。二人は毎日一緒に散歩をした。ドイツ人フォン・ベッチェン男爵と結婚し、ドイツ籍となっていたローランサンは、第一次世界大戦中にスペインに亡命、ベッチェンとの地獄の日々を送っていた。一方、堀口は外交官の父に同行して、メキシコ、スペイン、ブラジル、ルーマニアで生活をしており、二人の交友は1922年のパリで復活する。

                 

▼私生児として1883年パリに生まれたローランサンは、1902年、磁器の絵付けの講習に通い始め、その2年後には画家を志してアンベール画塾に学ぶ。そこでアカデミックな写実の技法を習得する。当時、パリのモンマルトルには、詩人のマックス・ジャコブによって名づけられた「洗濯船」というアパートがあり、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニなどが住んでいた。そこには、ギヨーム・アポリネール、コクトー、マティス、そしてローランサンなどが出入りする。1907年、ピカソを介してローランサンは詩人アポリネールと運命的な出会いをする。

                 

▼ローランサンは22歳、アポリネールは27歳。アポリネールとの波瀾に富んだ恋愛関係は6年間続いた。アンリ・ルソーの肖像画「詩人に与えるミューズ」に2人は描かれている。ローランサンは彼のもとを去るが、アポリネールは彼女を忘れ難く、その想いを詠ったのが「ミラボー橋」といわれている。ローランサンは1921年にフランス永住の許可を得てパリに戻り、1914年に結婚したベッチェンとは1922年に離婚した。

                

▼アポリネールとの出会いは、ローランサンに画期的な転機をもたらした。当時のもっとも前衛的なこの絵画運動のただ中で伝統的な画法から脱皮し、キュビスティックな画風を展開させた。亡命先のスペインで出会った堀口に、画面に登場する女性たちは自分の「感情の姿」だから自分とよく似た姿をしているのだ、と語ったという。確かにローランサンが描く多くの女性たちの中に、彼女の面影を見つけることができる。ゆえに、そのパステルの淡い色調とあいまって、日本人のこころを惹きつけるのであろうか。

            

▼パリに戻り、心の平静を取り戻したローランサンは、フランスの美しき時代を生き、憂いをたたえた詩的な女性像から、繊細さと華やかさをあわせ持つ夢の世界の少女像を生み出し、1956年パリで心臓発作のため没した。ローランサンは純白のドレスに包まれ、手には赤いバラが握らされ、遺言によって胸には若き日にアポリネールから送られた手紙の束が載せられていたという。 

               

▼堀口の訳になるローランサンの詩が残されている。

   

「鎮 静 剤」
              マリー・ローランサン
                  堀口大學 訳
退屈な女より 

もっと哀れなのは 

悲しい女です。

悲しい女より 

もっと哀れなのは 

不幸な女です。

不幸な女より 

もっと哀れなのは 

病気の女です。

病気の女より 

もっと哀れなのは 

捨てられた女です。

捨てられた女より 

もっと哀れなのは 

よるべない女です。

よるべない女より 

もっと哀れなのは 

追われた女です。

追われた女より 

もっと哀れなのは 

死んだ女です。

死んだ女より 

もっと哀れなのは 

忘れられた女です。

(七波)