つれづれなるままに
 
「風叙音」 誌上で連載中!    
 
 
                ■写生と取り合わせ
 
                ■命の俳句ー狼となる金子兜太                
                             
                ■風紋~青のはて2017~-宮沢賢治の終着
 
                ■天皇の白髪
 
                ■伊勢偉智郎の絵といせひでこ、そして柳田邦男                
                             
                ■保武と忠良、そして坂井道子の句
 
                ■俳句への道(加藤楸邨)
                
                ■それでも鷹は飛んで行く
                   
                ■根岸庵律女
 
                ■銀河鉄道の恋人たちーミュージカル・エレジー
 
                ■完了・存続の 「し」 について   

                ■『風叙音』 第十号刊行祝賀会  

                ■相良凧と友ゆうぎ    

                ■先生のオリザニン  

                ■三Hクラスの俳人たち

                ■ジャズライブより―MALTA&銀座スウィング 

                                

  松井茂樹の光と翳

 

 

以前から訪ねて見に行きたかった絵画があった。それは松井茂樹の絵画で、越谷市総合体育館にあるという。越谷での句会の後、夕方5時近くに越谷駅からタクシーを飛ばして体育館に到着。事前に連絡しておいたので、係の方が鄭重に案内してくれた。

              

 

鍵がかけられた特別室の中に、その80号の絵が架けられていた。『風』というタイトルの風景画である。前面に川が流れている田園風景、その奥にはビルなどが見え隠れする。都市化が進む20年くらい前の埼玉の一風景なのだろう。川面にはまさしくさわやかな風が流れ、キャンバスから不思議な透明感が漂う。

          

 

松井茂樹は1950年に滋賀県の米原に生まれ、東京芸術大学油画科で中谷 泰に師事、サージマルシス大賞展グランプリを受賞するなど、日本を代表する画家の一人である。具象画のほか、半具象画やペン画もこなすマルチな、器用な画家である。

              

 

松井茂樹は、よくヨーロッパを旅し、オランダや北フランス、プロヴァンス、南フランスやヴェネチア等の風景を多く描いている。その一方で、伊豆の漁村や飛騨の山村など、日本の風景の原点ともいうべきその場所も多く描いている。ことに故郷の伊吹山をこよなく愛し、四季折々の伊吹山景を描き続けている。

               

 

風景画家として名を成した松井茂樹ではあるが、実はその真骨頂は、半具象画にあると思っている。「ある日の記憶」「街(ヴェニス)」「風に向かって」「機械仕掛けの生物」など、一連の作品がある。

                 

 

そこに描出されるのは、光と翳が交錯する彼自身の心の風景である。その彩色のバランスのすばらしさ。構成も心地よい。躍動があり、生命感にあふれ、透明感につつまれた心の風景がある。

               

 

▼そこにあるのは、その土地・土地の光であり、息吹であり、人々の喜びであり、また土着の避けられない翳であり、苦悩であり、そして、それは画家たる松井茂樹の心の中の風景である。非日常の中の物事、突出した鋭利な思いや丸い漠とした淡い幻想が、日常の生業(なりわい)の一部のように、やけに懐かしい風景になるのだ。そこに松井茂樹の半具象画の真骨頂がある。(七波)

             
  
  
  
  東 悠紀恵の美の世界

 

 

▼あなたは同じ絵画を見るたびに、何かが変わってみえるという経験をおもちであろうか。東 悠紀恵(あずま・ゆきえ)の描く絵画は、見る者の魂の状態(エタ・ダーム)によって、見え方が変わってくるのだ。彼女の絵の中で特徴的なのは、人物像の「視線」だ。彼女の絵を見た瞬間、視線を強く感じるだろう。同じ絵画の同じ人物像でありながら、時に激しい拒絶的な視線であり、時に射抜くような恐ろしい視線であり、また優しい慈母のごとき視線であったりする。

              

 

▼東 悠紀恵が人物像を描くとき、人物の顔から、否、きっと“眼”から描きはじめるにちがいない。全体の構図ができあがる前に、彼女の手は動きはじめている。彼女が描いているというよりは、彼女自身が意識しようがしまいが、天から立体的かつ透視的に降ろしているのだ。そう思われるほどに、彼女の描く世界には魂が込められている。人形に魂が移入されるように、彼女の作品には、おびただしいほどの魂が投影されているのだ。

                

 

▼なぜなら、東 悠紀恵の描く世界は、あなた自身の視線の先にある、あなた自身の存在であり、あなた自身の心の中にある、あなた自身の真実だからだ。非現実の幻想的な絵画のモチーフに仮託して、あなたの心の中の真実を切り取ってみせているともいえる。ゆえに、彼女の作品を見た瞬間のあなたの心の中が、そこに照射されるのだ。

              

 

▼東 悠紀恵は、1981年静岡県裾野市に生まれ、名古屋芸術大学版画科に学んだ20代の画家だ。幼い時、闇雲に玩具を与えられるのではなく、自分で想像の世界を開いて、ひとり遊びを楽しんでいたという。2001年日本童画大賞(イルフビエンナーレ)入選、2002年第14回メルヘンイラストコンテストメ優秀賞・KFSアート・コンテストKFS大賞、2003年第15回ルヘンイラストコンテスト大賞受賞。2004年から毎年、銀座や渋谷で個展を開催し、数多くの挿画や装丁をこなす一方で、2007年より大衆演劇早乙女太一の背景美術を手掛けている。もともとは版画、立体造形美術から出発した人であったが、イラスト、油絵へと展開し、独自の画風を築きつつある今、最も注目されるマルチの才女なのだ。

               

 

▼東 悠紀恵の絵画の特徴は、まず技量の確かさ、絵のうまさであろう。構図の素晴らしさでもある。描く世界は中世ヨーロッパのモチーフから、和のテーストを加味した画風に緩やかに移行しているとともに、登場する人物も、その激しい表情から柔和な表情に、喧騒な世界から静謐な世界に変貌してきている。その技法も、キャンバスにアクリル絵の具や色鉛筆を何重にも薄く塗り重ね、さらに金箔を施し、乾いたら軽くヤスリをかけ、金箔を少し残しながら剥がしていくという独自の技法を編み出し、独特の世界観を築き上げている。

                 

 

▼私の書斎に架けられた東 悠紀恵の作品『約束』は、『響』と対をなすものであろうか。母娘とも思えるヴェールをかけた二人の女性が、言葉を交わすことなく、心の中で会話をしている。キリスト教における代母と洗礼を受ける女性にも見える。ただ、そこにあるのは、汚辱の心をイノセントに、神の前にすべてを曝した無垢の世界である。あなたが、それを受け入れたとき、あなたの心にも柔和な緩やかな時が流れるだろう。もしあなたが、あなたを咎める視線を強く感じるとすれば、それはあなたの心の中に葛藤があり、あなたの心の中に憤怒や蟠りがあるからだろう。

               

 

▼東 悠紀恵は、ますます進化していく、目を離すことができない本格的な画家である。なぜなら、彼女の描く世界は、絵画でありながら音楽でもあるからだ。彼女は、絵画という芸術の中に音楽という一見異質でありながら、融合し合う世界を築こうとしている。われわれは、東 悠紀恵の世界から魂の調べを、魂の響を聴くことができるのだ。 (七波)       

  
  
  

 

  最長老ジャズ・ピアニストの死

 

▼ジャズ史とともに生きた史上最高齢のピアニスト、ハンク・ジョーンズが死んだ。享年919カ月。228日の「新潟市民芸術文化会館」、それがハンクの最後のライブだった。

          

 

▼ハンク・ジョーンズは、1918731日にアメリカのミシシッピ州で生まれた。歌手だった母の影響で幼いときからピアノを弾き、13歳ですでに大人に交じりジャズ・ピアニストとして活躍している。40年代にニューヨークへ出て、48年から53年までエラ・フィッツジェラルドの伴奏者となり、57年ベニー・グッドマンのバンドに参加して初来日している。デキシーランド、スウィング、クールなどあらゆる分野のジャズを演奏し、マリリン・モンローの伴奏をする一方で、ペギー葉山や2006年のケイコ・リー、2008年の川井郁子のアルバムに参加している器用なピアニストなのだ。

 

          

▼しかし、ハンクは決して天才ではなかった。1960年代から70年代のピアノといえば、ハンクと同世代の“孤高の天才”セロニアス・モンクと“銀盤の皇帝”オスカー・ピーターソンが双璧の時代だった。その後のジャズ・ピアニストの系譜は、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレット、そしてブラッド・メルドーと続く。

 

           

▼いつからか、ハンクはスタジオ・ミュージシャンの色彩が強くなっていく。原曲のメロディーを大切にし、手堅くかつ個性的な美しいハーモニーを奏で、時に力強い繊細なタッチをみせるものの、決して自己主張をしない謙虚な演奏スタイルを貫いた。ハンクは名ピアニストであったが、その存在は地味な、そして名盤の陰になくてはならない名バイプレイヤーだったのだ。

 

           

▼往年のジャズファンであれば、ハンク・ジョーンズのピアノを聴いたことがあるだろう。「枯葉」で有名な1958年の“キャノンボール・アダレイの『サムシン・エルス』”。マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキーらとの名盤だ。ちなみに、このアルバムはマイルスのレーベル契約の関係で、キャノンボール・アダレイの名が冠せられたいわくつきのものなのだ。ほかにも、ハンクの参加しているアルバムには、チャーリー・パーカーの『ナウズ・ザ・タイム』、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』など、枚挙したらきりがない。

 

            

▼ハンクがジャズ・ピアニストとして復活したのは、1975年に日本のレーベル、イースト・ウィンドからアルバム『ハンキー・パンキー』が発表されたときだ。その1年後には、渡辺貞夫をリーダーとして『アイム・オールド・ファッション』が発表される。そのバックを、ハンク・ジョーンズ〈ピアノ〉、ロン・カーター〈ベース〉、トニー(アンソニー)・ウィリアムス〈ドラムス〉のトリオがつとめた。このアルバムによりハンク・ジョーンズは脚光を浴び、このトリオは日本の懐古趣味のジャズ・ファンの心をつかむ。

 

           

▼この成功により、1976年ハンクは「グレイト・ジャズ・トリオ」を結成し、メンバーを代えながらも、その人柄と誠実な演奏で日本での成功と人気を勝ち取り、作曲者として評価を得る。アメリカではほとんど紹介されることはなかったものの、日本全国での演奏活動、CMへの出演などにより、日本での人気は不動のものとなり、やがて海外で再評価されていく非常に稀有なアーチストだ。

 

            

▼とはいえ、ハンクの演奏のすばらしさは本物だ。ハンクの曲を演奏し、ハンクを尊敬してやまないチック・コリアとは、2006年に東京で共演している。ハンクは、いつも優しく、努力の人だった。毎日の練習を欠かさず、生涯現役を標榜し、91歳になっても握力を強化していたほどだ。脇役から主役に転じ、メジャーとなったハンク・ジョーンズは、2008年にブッシュ大統領から「アメリカ国民芸術勲章」を授与されている。 (七波)     

  
  
  
  アイリーン・フェットマンの絵画
 

 

▼アイリーン・フェットマンの描く世界は不思議だ。彼女の絵を見たものはみな、そこに風の揺らぎと光の放射を感じる。気がつくと、心が洗われるような愛に包まれ、優しさを感じ、幸せな気分になるのだ。人はみな彼女の絵に癒しを感じるのかもしれない。時間が経つのも忘れ、その絵の前で立ちつくし、素直な気持ちで、惚けたようにみとれてしまうのだ。

       

▼アイリーン・フェットマンは、1962年旧ソビエト時代にウクライナのキエフで生まれた。11歳で絵画選考エリートコースに選抜され、英才教育に拠る高度な絵画技術を身に付けた。その後、16歳のとき、一家でアメリカに移住し、クリーブランド美術大学に学ぶ。

       

▼カルフォニアの山の中に住む彼女の絵のモチーフは、ときにカルフォニアの海を見下ろす友人の別荘の中から、光眩しい外側に向かって心を発散させる。レースのカーテンをほのかに揺らす風や、やわらかな日差しが心地よく、花や果物が幸福感を増幅する。外の美しい緑の広がりと穏やかさ、その向こうに海の開放がある。また、ある時は、雨の日の窓辺から外に向かうメランコリックな心の発露であるが、そこには雨の恵みがあり、彼方には明るい空があり、明日への希望が見えてくる。

       

▼彼女の作品には、幼児期の娘以外に、人物はほとんど登場しない。仮に女性が現れても、後ろ姿の構図であって、登場人物からの先入観からくるイメージを払拭し、透明な光と風のそよぎの世界に、見る者のこころのあるがままに、想像を膨らませようとするかのようだ。

       

▼彼女は絵を通し、われわれに心の疲れを癒し、また明日へのエネルギーを注入してくれようとしているのかもしれない。 (七波)

  
  
 
  マリー・ローランサンと堀口大學
 
 

▼1929年3月に創刊された『オルフェオン』の巻頭の口絵を飾ったのは、マリー・ローランサン(18831956)の原色刷であった。それは第一書房から刊行された堀口大學(18921981)の編集による詩誌である。同じ1929年1月まで刊行された日夏耿之介・西條八十・堀口大學編集による『パンテオン』(第一書房)の第10号(最終号)にも、ローランサンの原色刷の口絵が巻頭を飾っているし、19285月刊行の『パンテオン』第2号にはモノクロ刷で掲載されている。

                

▼『パンテオン』にはアンリ・マティスやモーリス・ブラマンクなどの絵画が、『オルフェオン』にはジョルジョ・デ・キリコの絵画やジャン・コクトーのキリコ論も掲載されていて、西洋詩の紹介のみならず西洋絵画の紹介も兼ねていたようだ。これほどまでに、当時の西洋画が時を経ないで紹介されているのはなぜであろうか。

                

▼実は、1915年に堀口はスペインのマドリードでローランサンに出会っている。二人は毎日一緒に散歩をした。ドイツ人フォン・ベッチェン男爵と結婚し、ドイツ籍となっていたローランサンは、第一次世界大戦中にスペインに亡命、ベッチェンとの地獄の日々を送っていた。一方、堀口は外交官の父に同行して、メキシコ、スペイン、ブラジル、ルーマニアで生活をしており、二人の交友は1922年のパリで復活する。

                 

▼私生児として1883年パリに生まれたローランサンは、1902年、磁器の絵付けの講習に通い始め、その2年後には画家を志してアンベール画塾に学ぶ。そこでアカデミックな写実の技法を習得する。当時、パリのモンマルトルには、詩人のマックス・ジャコブによって名づけられた「洗濯船」というアパートがあり、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニなどが住んでいた。そこには、ギヨーム・アポリネール、コクトー、マティス、そしてローランサンなどが出入りする。1907年、ピカソを介してローランサンは詩人アポリネールと運命的な出会いをする。

                 

▼ローランサンは22歳、アポリネールは27歳。アポリネールとの波瀾に富んだ恋愛関係は6年間続いた。アンリ・ルソーの肖像画「詩人に与えるミューズ」に2人は描かれている。ローランサンは彼のもとを去るが、アポリネールは彼女を忘れ難く、その想いを詠ったのが「ミラボー橋」といわれている。ローランサンは1921年にフランス永住の許可を得てパリに戻り、1914年に結婚したベッチェンとは1922年に離婚した。

                

▼アポリネールとの出会いは、ローランサンに画期的な転機をもたらした。当時のもっとも前衛的なこの絵画運動のただ中で伝統的な画法から脱皮し、キュビスティックな画風を展開させた。亡命先のスペインで出会った堀口に、画面に登場する女性たちは自分の「感情の姿」だから自分とよく似た姿をしているのだ、と語ったという。確かにローランサンが描く多くの女性たちの中に、彼女の面影を見つけることができる。ゆえに、そのパステルの淡い色調とあいまって、日本人のこころを惹きつけるのであろうか。

            

▼パリに戻り、心の平静を取り戻したローランサンは、フランスの美しき時代を生き、憂いをたたえた詩的な女性像から、繊細さと華やかさをあわせ持つ夢の世界の少女像を生み出し、1956年パリで心臓発作のため没した。ローランサンは純白のドレスに包まれ、手には赤いバラが握らされ、遺言によって胸には若き日にアポリネールから送られた手紙の束が載せられていたという。 

               

▼堀口の訳になるローランサンの詩が残されている。

   

「鎮 静 剤」
              マリー・ローランサン
                  堀口大學 訳
退屈な女より 

もっと哀れなのは 

悲しい女です。

悲しい女より 

もっと哀れなのは 

不幸な女です。

不幸な女より 

もっと哀れなのは 

病気の女です。

病気の女より 

もっと哀れなのは 

捨てられた女です。

捨てられた女より 

もっと哀れなのは 

よるべない女です。

よるべない女より 

もっと哀れなのは 

追われた女です。

追われた女より 

もっと哀れなのは 

死んだ女です。

死んだ女より 

もっと哀れなのは 

忘れられた女です。

(七波)